年表・沿革


康正二年(1456年)
金沢の人儀賀市郎左ェ門銀山を発見、翌年より西山で採鉱に入る。これより五十年、銀山の人口戸数は目をみはるものあり。(旧記戸数 1,6000軒)


天正二年(1574年)※この間、廃鉱70年
延沢能登守上の畑に関所設ける。(天正年中)山形両所宮々司須留守(二万石)最上義光調伏祈願の罪を似て銀山岩薬師に流され、翌年軽井沢峠にて殺さる。


天正五年
当地方の領主延沢能登守が山形城主最上義光と結ぶ。よって、世人再度銀山に集まり銀山復興す。


天正十五年
能登守死去、遠江守跡つぐ。正楽寺建つ。(天正年間)


慶長(年不詳)
上方より梁田八郎右ェ門銀山に来る。泉州堺の十兵衛来る。(この時期に初代小関吉佐衛門両替商始める)温泉発見、その利用始まる。(1596年~1614年)


元和六年(1620年)
仙台藩キリスト教を弾圧、よってアンゼリス延沢銀山に入り、後山形におもむく。


元和八年
最上家没落と共に延沢氏九州に流さる。山形は鳥居氏(二十四万石)が城主となり、当銀山もまた鳥居氏の領となる。


元和九年
カルバリヨ・ガルベス・アダミ等キリスト教布教の主力を延沢銀山にそそぐ。


寛永八・九年(1631年)
銀山の最盛期


寛永十一年
幕府直営の御公儀山となり、伊丹藩摩守これを支配す。


寛永十二年
人口著しく増加(旧記卅万)食糧難の為、御留山の令出さる。


寛永十四年
山形藩主保科氏(卅万石)に改る。


寛永十七年
山師土屋作之亟らの猛運動により、御留山解除。翌年三月より採鉱に着手。米沢藩主上杉定勝野辺沢銀山への出稼禁止の令出す。


寛永十八年
これより運上山として山師、大役の請負制となり土屋作之亟以下五名にて落札す。


寛永十九年
幕府直領となり銀山に代官所置かる(代官松平清左ェ門その直領拾壱万千石)


寛永十九年~寛文五年
松平清左ェ門代官所(幕領)延沢より宗門多く出申候・・・「契利斯督記・吉利支丹出申国所覚より」


正保三年(1646年)
これまでの採鉱地西山衰退著しくなる。山師梁田羽左ェ門・宮島文三郎の両人東山採鉱。


慶安元年(1648年)
常信寺建つ。採鉱地は西山より東山に移る。土屋作兵亟高山採鉱に着手。


明暦二年(1656年)
頼明寺尾花沢へ移る。


寛文五年(1665年)
温泉街は銀山新畑村となる。時の戸数67・男159人・女99人・出家13とあり。(寛文検地帳)


寛文六年
銀山新畑村の陣屋(代官所)を廃し長瀞村に移す。鉱産著しく減じ寛永・正保に比し1/3となる。


寛文七年
山師作兵亟を頭に千秋作兵エ・木戸佐左ェ門・越後次郎助・白崎多兵ェ梁田示斉※の活躍によりこの年よりその銀産出著しく増加す。この一期を世に「五人山の盛り」と言う。(※「示」は「示」辺に「右」)


延宝七年(1677年)
「五人山の盛り」もこの年で終わり、銀山は衰退の一途をたどって行く。当時の上の畑(延宝検地帳)戸数19件・馬13等・人口66人。


元禄二年(1689年)
延命寺建つ。(現公園入口)東山衰退しかつ大崩潰が起り全山廃山となる。


享保六年(1721年)
常信寺尾花沢へ移る。


寛保年間(1741年)
これより温泉地として盛んになる。


寛政十年(1798年)
上の畑村長瀞米津領(壱万石)に入る。


天保二年(1831年)
上の畑焼窯場作らる。


天保三年
大泉寺積雪の為倒潰廃寺となる。


明治十六年(1883年)
山形中村林兵エ採掘。


明治四十年
溝延菊地与八郎採掘。


大正二年(1913年)
延命寺大洪水の為流さる。


昭和九年(1934年)
江口徳治採掘。


昭和十一年
鉱渤搬出再精錬。